竹内街道

12月8日の日経朝刊に、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄が攻撃後に作成した戦果説明図が6日、ニューヨークで競売に掛けられ、42万5千ドル(約4,370万円)で落札されたと報道されていた。

落札者は明らかになっていないようであるが、淵田美津雄は「街道をゆく1」竹内街道に載っていて名前は知っていた。いろいろと大変な人生を送られたようだ。

「竹内街道」は私の生まれる1年前、週刊朝日1月29日号から3月5日号に掲載された。私も近々、橿原から堺まで竹内街道を走る予定なので楽しみだ。

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正面からみると、葛城の山が大和盆地(クンナカ)にむかってなだらかに山すそをひき、竹内街道が赤土の坂になって、山へのぼっている。坂の登り口に在所があり、その中腹あたりに白壁の村があり、それが竹内である。

昭和18年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、******声をのむような美しさであるように思えた。

「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」ということを、ごく最近、大阪の中之島で出会ったひとに話すと、そのひとはわざわざ出かけけてくれて、申されるとおりである。

そのひとは*******淵田美津雄という元海軍大佐である。

戦後キリスト教の伝道者になられた。たしか大和のひとで、******父君がこの長尾の在所にある小学校の教頭さんをしておられ、このため幼少のとき長尾ですごされたというが、「なにぶん子供のころでそのあたりがとくに美しいとはおもっていなかった。しかし、その後長い歳月を経てあらためてその場所に立ってみると、なるほど美しいような気がする」ということであった。

私が、昭和18年の秋にこの竹内への坂をのぼったとき、多少いまから思えば照れくさいが、まあどうせ死ぬだろうと思って出かけたのだが、坂を登ってゆくその坂の上の村はずれから、自転車でころがりおりてきた赤いセーターの年上の女性(といっても二十二、三の年頃だと思うが)がいて、すれちがいざまキラッと私に(?)微笑し、ふりかえるともう坂の下の長尾の家並みの中に消えていて、ばかばかしいことだがいまでもその笑顔をおぼえている。

*****他意はなかったにちがいない。しかし、当方としてはそれだけでしばらくボンヤリしてしまい、にわかに恋が襲ってきたような気がして*******アホらしいが、それほどあの時代の青春はまずしかったように思われる。


司馬遼太郎は一言も戦争はダメだとか、淵田美津雄との会話の内容など詳しくは書かれていないが、おそらくいろいろとあの戦争について語ったのであろう。このような描写が司馬遼太郎独特の紀行文であり、府中市に20年住んでいた民俗学者宮本常一と共通するものを持っていると思うし、事実司馬遼太郎は宮本常一を尊敬していたようだ。

私(司馬遼太郎)にはそういうことよりも、書物のなかでしか知らなかった先生(宮本常一)の警咳にじかに接することのよろこびに心をうばわれてしまっていた。(宮本常一ー同時代の証言・81年5月)

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